更新日:2021.3.19
そもそも虐待の定義とは?
近年、虐待に関するニュースを耳にする機会が増えていると思います。問題が社会に浸透するのとともに、「虐待はいけない」「子どもへの体罰は虐待」などと、以前より多くの人が考えるようにもなっています。
一方で「虐待とはどんなものか」という問いに正確に答えられる人は決して多くないでしょう。例えば、学校の教員による子どもへの体罰やベビーシッターのわいせつ行為は、「(児童)虐待」とは呼ばれません。なぜでしょうか。
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称:児童虐待防止法)は、児童虐待の定義を定めた第2条で
「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
「児童虐待の防止等に関する法律」(通称:児童虐待防止法)第2条
と定めています。つまり当該子どもの「保護者」以外による行為は、どれだけ虐待的な行為であっても法律上は児童虐待の範疇に含まれないということです。ちなみに同法はどんな行為が「虐待」にあたるかということも定めています。大きく分けて4類型があり、これらは重複して起こり得るものです。
児童虐待の4類型
身体的虐待 | 殴る、蹴る、叩く、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、 溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束する など |
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性的虐待 | 子どもへの性的行為、性的行為を見せる、性器を触る又は触らせる、 ポルノグラフィの被写体にする など |
ネグレクト | 家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、 自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れていかない など |
心理的虐待 | 言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、 子どもの目の前で家族に対して暴力をふるう面前DV (※DV:ドメスティック・バイオレンス)、きょうだいに虐待行為を行う など |
いわゆる「虐待」の話をするとき、しつけや教育的指導との線引きが問題になりやすく、どういった行為が虐待にあたり、どういった行為があたらないのか、常に俎上に上ります。子どもが流血するような暴行や性行為を虐待とすることに異論はほぼないでしょうが、例えば「親が子をけがしないように優しくたたく」といった行為が虐待にあたるのか、ということについては、個人レベルでは今も様々な意見があるでしょう。
重要なのは「『虐待』をなくす」のではなく「子どもを守る」こと
しかし、被害者となる子どもの目線に立ったとき、その行為が「法的に虐待と呼ばれるものかどうか」という線引きよりも重要なことがあります。その被害を受けずに済むこと、理不尽な暴力や圧力からきちんと守られることこそが、子ども自身が望むことと言えます。
刑罰の発生する法律がある以上、加害をした大人の行為が「虐待にあたるかどうか」という線引きをすることは避けられません。しかしそうした線引きはともすれば「虐待は良くないが、虐待でなければ許容される」という認識を引き起こします。虐待の問題に関心を持たれた方にはぜひ、統計などでいわゆる「虐待」として認知されるもののほかにも、子どもが苦しむ状況が多くあることを認識していただきたいと思います。
欧米や国際社会で虐待の問題を扱うとき、近年はマルトリートメント(Maltreatment)という言葉が使われます。WHO(世界保健機関)などもいわゆる虐待の問題は「Child Maltreatment」という項目名で扱っています。「Mal-」(良くない、不適な)という接頭語に、「treatment」(処置、扱い)という語がついた言葉です。日本では「abuse」とともに「虐待」と訳されることもありますが、従来使われてきた「虐待」とは異なる概念として、区別するために「子どもへの不適切な養育・関わり」などと訳すケースが多いです。
日本での「虐待」が行為者を保護者に限っている以上、虐待の主な舞台は必然的に家庭内になります。しかし実際には家庭外でも「虐待と同様の行為」はあります。また行為として「虐待」と言いにくくても、子どもの心身の発達に影響を及ぼしかねず、改めたほうがいいと考えられる行いも実はたくさんあります。
例えば保護者の「自転車の補助椅子に子どもだけを乗せたままその場を離れ、買い物をする」「乳幼児の手の届くところにたばこやライターを置いておく」といった行為。教員による乱暴な言葉遣いや、校内のいじめに対する無関心や怠慢。コンビニなど子どもの目に入りやすい場所での成年誌の販売。マルトリートメントという言葉には生活のあらゆるシーンで、子どもにとって望ましくない行為・状況を改善しようという思いが表れています。または、子どもにとって望ましくない大人の行為はすべて「広義の虐待」であるとして、なくしていこうという考えともとらえられます。
それぞれの不適切な行為にどのように対応するかは、国や地域の実情に合わせて考える必要があります。欧米では、子どもだけで留守番することを虐待とする地域があることはよく知られるようになりました。しかし小学生が1人で電車に乗り通学する様子は、日本の大都市では当たり前のように見ることができます。では日本でも、これを直ちに禁止すべきでしょうか。禁止したとして、何歳からなら1人で通学していいのか。バスは許されるのか。大人の送迎が必須だとすれば、誰がするのか。この一例をとっても考えるべきことは山のようにあり、一律の対応が難しいことも多いでしょう。
しかし忘れてはならないのは、このような課題に関するすべての議論は「子ども(の利益)を守る」ことが目的だということです。大人に「これはしちゃいけないけど、これはしていい」と保証を与えることではありません。
虐待をしてしまう大人にも、それぞれの事情はあります。しつけのつもりだった、というものから、私生活の苦しさをぶつけてしまうもの、大人が精神疾患を持つケースなど。自身も幼いころに虐待を受けていて子どもへの愛情の注ぎ方が分からず、自分の子にも虐待をしてしまう「虐待の連鎖」という現象も専門家は指摘します。長幼の序や家父長制といった価値観が重んじられてきた日本では、子どもを守ろうとする方向性に対して「子どもを甘やかすな」といった主張も根強く聞かれます。
しかし、いかなる事情があろうとも、子どもへの虐待的行為が正当化されることはありません。生きる環境を自分で選べない子どもが、育つ環境のせいで長期にわたって苦しみ、不利益を受けなければいけない正当な理由などどこにもないからです。保護者は養育において子どもに一定の義務と権利を持ちますが、子どもの人生は本人のものでしかありません。子どもの利益にならない行為は広義で言えばすべて虐待の可能性があり、そして虐待は行為が重大であればあるほど、子どもの将来を奪う極めて重大な非行だと認識される必要があります。